山谷と○○○

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山谷地区について

NPO友愛会がある山谷地区について

 

夕暮れのドヤ街を歩く元労働者

歩道で一晩寝転んで、靴を置いてどこに行った

山谷地区について

現在の住居表示で言うと、東京都の台東区清川、日本堤、橋場と荒川区南千住にまたがる地域を指す。戦後の復興期から高度経済成長期にかけて、東京の土木・建築業などに従事する日雇労働者が多く住み、季節労働者や出稼ぎの人も多く集まっていた。「日雇労働者市場」とか「寄せ場」と言われていて、大阪の西成区(あいりん地区:釜ヶ崎とも言う)、横浜の寿町と共に「三大寄せ場」と言われていた(「寄せ場」、「日雇労働者市場」共に差別的な言葉と言われることもあるのでこの表現はこの先は使いません)。日雇労働者の人達は、その名のとおり「日雇い」での就労なので仕事があるときもあればないときもある。もちろん、本人が仕事に行かなければ仕事もしない状態になる。そうなるとお金がないのでドヤ(簡易旅館)に泊まれず、野宿をすることになってしまう。これを労働者の人達は「アオカン」と言っている。語源は「青空簡易宿泊」の略だと言われているが本当のところはわからない。今で言うところの「路上生活者」や「ホームレス」に近いのであろうが、そういう意味では、山谷地区では道端で寝転んでいる人というのは昔から珍しくなかった。歴史的には、江戸時代から山谷地区の原型はあり、木賃宿(食事を提供しない素泊まり専門の旅館)が多く立ち並んでいたようである。その頃は日光街道の江戸方面の最初の宿場町であった。山谷地区のシンボルとも言える「泪橋交差点」は、現在は交差点の名前だけで橋はないが、昔は橋があり、橋を越えたところに「小塚原処刑場」があったことから、囚人やその家族などが涙したとして「泪橋」となったと言われている。処刑場の近くであって、しかも近くには遊郭「吉原」があったため(今でも近くに吉原のソープランド街がある)、表現が悪いが下層階級の地域であったと言える。近代になり、戦前より既に多くの貧困層や労働者が居住していたが、戦後になると、東京都とGHQによって戦争被災者のための仮の宿泊施設(テント村)が用意され、これらが本建築のドヤへと変わっていったようである。1960年代以降、山谷地区では、警官と労働者の間で何度も暴動(山谷騒動)が起こった。つい最近まで「一人では恐くて歩けない」というイメージができてしまったのはこの暴動のイメージからであろう。「山谷」という地名は、1966年の住居表示改正でなくなってしまった。

 

日本ではここでしか見られない看板

 

ドヤについてもう少し詳しく

通称で「ドヤ」と言われているもので、正しくは簡易旅館もしくは簡易宿泊所と言われているものである。山谷地区にあるドヤの殆どは、旅館、宿泊所と言っても素泊の宿(食事などがでるわけではなく、泊まる場所・部屋のみの宿)で1泊2泊でも泊まることは可能だが、多くの場合は長期に滞在する傾向にある。高度経済成長期の土木・建築業等を支えた日雇労働者が多く住むところであった。1950年代の最盛期では、ドヤは222軒、収容数は15,000人分にのぼったが、現在では177軒、6,500名ほどである。
一日の宿泊代は、おおむね個室で1泊1,800円から2,500円くらいであるが、古い所であったりすると個室ではなく二段ベッドであったり、個室でも1~2畳と狭い間取りになっていて1,000円台前半のところもある。山谷地区のシンボル的になっている表通りに面したドヤは一番安い料金が1,000円くらいで、二段ベッドが並ぶ八人部屋である。最近できた新しい所では、3,000円台の価格に設定している傾向があり、安いビジネスホテルといった感じである。2002年のサッカーワールドカップ以降は、外国人の旅行客の利用が増え、そうしたビジネスホテル形態のものが増えている。「労働者の街」であったことから、女性がこの街を一人で歩く姿は皆無であったが、最近は雰囲気も変わり、それに合わせて女性の泊まれるドヤというかビジネスホテル風の新しいところも出来てきている。
そもそもドヤに住んでいる人達はどんな人達なのかというと、前述しているように古くからの「日雇労働者」や、最近増えている「外国人旅行者」の他に、「生活保護受給者」も多い。バブル経済崩壊後の1990年代後半、不況により増え続ける路上生活者への対策として、東京都内各区は、自区内の路上生活者に生活保護を適応し、自区内での住居が決まるまで山谷地区のドヤに預けるようになった。くしくも不況のため土木建築業は衰退し、仕事がなくなった日雇労働者がドヤの料金を払えず、空き部屋が目立ち始めたところで需要と供給が合った形になった。この生活保護の形は「ドヤ保護」なんていわれましたが、自区内のアパートに移るにも保証人などの問題もあり、ドヤに長期にわたって住所不定(ドヤは旅館みたいなものなので住所の設定は出来ないし、仮に設定できたとしても全てのドヤ保護者が台東区か荒川区になってしまうので区政が破綻してしまうから住所は不定のままになる)のままになっている人が少なくなかった。そのような問題をはらんだ「ドヤ保護」は、最近では各区とも抑制気味になっているが、いまだドヤに住む生活保護受給者は多く、結果、かつて「労働者の街」と言われた山谷地区は、「福祉の街」とか「棄民の街」と言われるようになった。「棄民」とは、棄てられた人たち、つまり生活保護はついているが生活保護の担当者(ケースワーカー)は全く訪問もせずドヤに入れっ放しにしているため、病気になろうが死にそうになろうが誰も知らない状況になっていたということである。実際、つい数年前まで、ドヤで凍死、餓死、変死する方は、年間50名以上いた。
生活保護を受けていないにしても、山谷地区の日雇労働者には「アブレ手当」と言うものが存在している。「アブレ手当」は、病気や天候不順などによって、一時的に仕事が中断された短期的な失業状態に対して支払われる日雇い雇用保険による給付のことである。この失業手当を受け取るには、被保険者手帳(白手帳)をまず取得する必要がある。働いた日は雇い主が印紙を一枚貼る決まりがあり、2ヶ月で26枚分働けば、翌月の一定期間、1日最高7500円を受け取れる仕組みになっている(今はもっと低額になっていると思います。現実的には4000~5000円くらいでしょうか)。このアブレ手当を上手に使い、仕事がなくても生活保護を受けずにドヤに住んでいる人もいる。
以上の説明の通り、現在のドヤの住人は、「日雇労働者」、「外国人旅行者」、「生活保護受給者」、そして「アブレ手当の受給者」で構成されている。「外国人旅行者」は別にして、その他の人達は、総じて高齢者や慢性疾患患者が多い。「日雇労働者」は、高度経済成長期の働き手であるのだから現在は高齢になっている。「生活保護受給者」は、働けないからこそ生活保護になるのだから、高齢者や病気の人である。「アブレ手当の受給者」も「日雇労働者」と同じである。視点を変えてみれば、ドヤは高齢で病気を持った人が多い、つまり「医療」、「介護」、「支援」が必要な人が多いところなのである。平成23年の統計では、ドヤの長期宿泊者のうち、68%が60歳以上の方である。
友愛会の活動と、このドヤとは関係がとても深いです。宿泊事業でも、ドヤに住んでいる人の支援もしていますし、訪問事業に至っては、まさにドヤの人達に訪問が必要だという思いから事業を始め、現在も多くのドヤの住人へ訪問をしている。  

あるドヤの一室