高齢化や経済不況だけが山谷地区の「労働者の街」としての衰退を進めたのかというとそうではない。
関東大震災、世界恐慌や第二次大戦などの大きな不安・不況を経験しながらも「労働者の街」として在り続けた山谷地区が、バブル経済の崩壊にはじめて動揺し、そして「棄民の街」「福祉の街」になった。端的に言えば、その時はじめて「日雇労働者市場(寄せ場)」としての山谷地区が必要ではなくなったということ。これは山谷地区だけでなく、大阪の釜ヶ崎、横浜の寿町なども同じである。日本の社会の中で「寄せ場」が要らなくなったのであろう。
しかしこれは、労働現場で日雇い労働者が不要になったことを表しているわけではない。現に労働者派遣法は改正しながら力を増し、非正規雇用者は増え続け、2011年には非正規雇用者率は35%を越え、2018年には37.5%に及んでいる。
では、山谷地区の何が不要になったのか。それは市場としての“場所”であった。
1996年以降、携帯電話の普及は年間1,000万台を超える。2001年からはインターネットカフェができ、同時期にマンガ喫茶も増える。「市場」が住所地から通信機器の中に変わったのである。仕事を探すのに「寄せ場」に来なくても、携帯電話やパソコンの中で見つけられる。わざわざ「寄せ場」のドヤに住む必要もなく、インターネットカフェやマンガ喫茶に寝泊まりすればよくなったのである。
法律や制度、発明や文化、そして時代によって形は変わっていくものであるが、社会の根元で支えるプロレタリアートはなくならない。寄せ場を離れ、散り散りになった困窮に見舞われている労働者への支援は、場を限定できない分、以前にもまして難しくなったことを憂いる。