友愛会の支援者への手紙 52
「前向きにあきらめる」こと
とても大切にしているスタンスの一つに「前向きにあきらめる」というのがある。
「あきらめる」という言葉はどちらかというとネガティブなイメージが強い。
自分の願いが叶わなかったり、行いが至らなかったりする中で、残念を断ち切るという意味で使われているのが一般的である。
この「あきらめる」に、漢字をあてると「諦める」や「明らめる」となる。
実は、『諦』の字は、「真理」や「道理」を表す漢字。
熟語で考えると、「諦観(たいかん)」、「諦聴(たいちょう)」などで使われるが、これらの意味は「つまびらかにみる、聞く」というもの。
つまり「あきらめる」は、「つまびらかにする」「明らかにする」が本来の意味である。仏教用語でもそのような意味で使われている。
この本来の意味での「あきらめる」ことは、私や友愛会の活動の中でとても必要だったりする。
たとえ話を一つ。
よくあるような話だが一応フィクションである。
ドヤ(山谷地区の簡易旅館)で一人暮らしをしている、仮にAさんという人がいて、脳梗塞を起こし半身が麻痺になってしまっている。離床は何とかできるが車椅子は嫌がり、バランスの悪い杖歩行を決してやめない。老人ホームやグループホーム、友愛会の宿泊所にも絶対に入りたくないと強く拒否している。介護保険を利用して在宅支援を導入してもヘルパーや看護師が訪問することは承諾してくれるが、デイサービスに通所することは嫌がって受け入れない。入浴についても、ドヤの風呂では介護は無理だからデイサービスでと言っても行かない。オムツも嫌がりトイレに行くのでドヤの管理人さんにお願いして三畳一間の小さな部屋に、何とか介護ベッドは入れさせてもらうのが関の山。ベッドがなければ、調子の悪い時は床から起きれずに汚物まみれになってしまう。内服薬も自分が飲むべきだと思ったものしか飲まない。つけ加えて、お酒が好きで杖をつきながら近くのコンビニに行きワンカップを購入し飲んでいる。血圧も高いし糖尿病の気もあるのだが…。介護保険のサービスだけで足りない部分は、友愛会の生活支援事業を使ってかかわっているが、ドヤの管理人さんからは「部屋で立てなくて大声出している」、「酒を飲んで嘔吐している」と夜中に連絡が入ることもしばしば。
こんなとき、私たちは「前向きにあきらめる」ことをする。
Aさんは、若い頃から山谷地区で日雇いを続け、今いるドヤにも20年以上“住んでいる”。
身寄りもなく、酒だけが愉しみ。ドヤの管理人さんも困ってはいるが、長い付き合いのAさんがここに居たくてって言うなら構わないと言っている。友愛会がかかわる前に一度老人ホームに入ったが耐えきれずに1~2週間で出てきてしまったこともあった。彼がここで暮らしていきたい間は、それをゆるしてくれる管理人さんがいるし、老人ホームに行っても出てきてしまって「いき場所」がなくなるくらいなら、彼の笑顔がときより見えるこの状態も悪くない。
そんな風に考えるようにする。
賛否あることだと思うが、彼を施設に入れたいと思ったり、彼にオムツを履かせたいと思うのは私たちの価値観に他ならない部分もある。安全で安心できる生活を考えるとそういった事をすすめるのだが、Aさんには施設は飛び出すほど嫌で、オムツは汚物まみれになっても履きたくないものであって、その意地を通すだけの気概もあるのである。それが私たちにも「明らか」になっているなら…。
それでも日々悩む。これで良いのかと。
だからAさんに折々に施設もオムツもすすめる。
そしていつものように彼は拒否をする。
彼が嫌ならまたの機会に、彼がそう望む日があれば…、そんな「前向きにあきらめる」毎日である。