友愛会の支援者への手紙 53

 

摩耗は研磨へ

就労支援をする。
就労先(バイト)がみつかって働き始める。
給料日に給料を持って失踪する。
パチンコで所持金を使い切る。
使い切ったらOFFにしていた携帯の電源を入れて「助けて」と連絡してくる。
そして帰ってくる。
スタッフや私と面接する。
下を見たまま黙ってやり過ごす。
面接が終わると「僕のこずかいはどうなりますか?」と悪びれずに言う。
そして、また同じことを繰り返す…。
彼は軽度の知的障がいを伴う発達障がいである。
しかし、その障がい性が直接的にこのような「わがままで困ったことの繰り返し」を生み出しているわけではない。
もちろん、障がいによる「理解の不十分さ」や「思考・行動統合性の低さ」も関係しているのであろうが、むしろその障がいによって経験してきた“生きづらさ”に対する本人なりの“生きる方法”によるところが大きいと思えるのである。
偏見、差別、不理解、排他、騙し、いじめ、暴力などといったことを理不尽に経験してきた経緯を知るに、それらによって染められた生活に絶望し、あきらめ、怒り、開き直ってしまったことで編み出した“生きる方法”なのだと感じる。
「サバイバー」なんて表現をしている人も多くいますよね。
ただ、何度となく同じ「看過できないこと」を繰り返されると、私たちも摩耗する。
「もう好きにしろ」とも思うし、「こんな奴、支援する必要なんてない」と思うことも正直多々ある。
そう、「私たちは何をしているのか」と心が摩耗するのである。
そして考える。
「本当にほったらかしていいのか?」「支援する必要なんてないのか?」
摩耗した心の中でねじりだす思いは、
「彼がそうなったのは彼の所為なのか」
「つらい経験の結果、今の彼があって、今の彼のあり方の結果、これからよりつらい経験につながってよいのか」
「彼は変わらないと言い切れるのか」…
そして、「彼にそれは良くないことだと言い続けなくては」となる。
支援、援助、助けといったものなのかどうかなんてことは分からないし、ある意味どうでもよいことな気がする。
ただ少しでも「生きやすくなる方法」を伝え続けるために、もう一度、そして幾度となく向き合うと思うのである。
摩耗は研磨へとつながっていくことを願って。 

2020年09月11日