山谷と蟻の町

NPO友愛会がある山谷地区はもともと、戦後の復興期に、GHQ(連合国軍総司令部)の指示で東京都が戦争被災者のテント村を作ったことがきっかけで労働者が集まり、高度経済成長期には東京の土木・建築業などに従事する日雇労働者が多く住んだことから「寄せ場」として形作られたことは以前にもふれた。ただ、山谷地区だけでなく、戦後の復興期には東京のあちこち、否、日本中のあちこちに貧民街が出来ていた。
「バタヤ」という言葉はご存じであろうか?
年輩の方々はご存知と思うが、若い世代は耳慣れない言葉だと思う。「バタヤ」とは廃品回収業者のことである。当時は「屑拾い」と呼ばれていた。背中に籠を背負い、街を徘徊し金目になりそうなものを拾い集め、二次業者に売って日々の収入を得る仕事である。彼らが公有地などに住みつき(不法占拠)、バラック小屋などが集まったところを「バタヤ部落」と呼んでいた。有楽町のガード下、御茶ノ水沿線、西新井橋の北側などあちこちに点在していたが、浅草にも「蟻の町(街)」というバタヤ部落があった。場所は現在の隅田公園台東区側である。「蟻の町のマリア」こと、北原怜子さんの話は知っている人も多いと思う。「蟻の町」は、職もなく、住む家もない人々が「蟻の会」という共同体を作って集まっていたことからそう呼ばれるようになった。
1950年代後半に入り高度経済成長期を迎えると、大量生産・消費時代が訪れた。バタヤが深くかかわる製紙業界では、梱包用として段ボールが普及したため、その原料となる古紙の需要が増えた。これは一見バタヤにとっては良いように思えるがそうではなかった。廃品回収業にも大量生産・消費に合わせた合理化が求められたのである。背負い籠やリヤカーでの収集量では到底追いつかなくなっていった。代わりに、土木・建築業を始めとした日雇労働者の需要が増えてきた。山谷地区などの「寄せ場」が活気を持つのはこの頃からであろう。浅草で言うなら、蟻の町から山谷へ労働需要が移行した構図である。ちなみに、この二つの地域は500mも離れていない。バタヤは次第に屑回収を続けられなくなり、この時代に急速に消えていった。商業・住宅密集地にあったバタヤ部落も取り壊しにされるか、あるいは代替地へ移転させられた。「蟻の町」は江東区の8号埋立地(枝川)に移転。当時の繁華街から遠いこの地では、より廃品回収は難しくなり、「蟻の会」の人たちも次第にこの地を去って行った。
90年代後半バブル経済が崩壊し、ある意味ではバタヤが復活した(この後の文章表現に語弊があると思えるが関連性をわかりやすくしたのだと解釈して頂ければ幸いである)。回収するものは紙屑から空き缶に変わっていた。不思議な因果を感じる。バタヤを消滅させた高度経済成長、その終えんが、違うかたちでバタヤ(ホームレス)を新たに増加させたようにも取れなくない。そうして、「蟻の町」のあった墨田公園には、ホームレスが住む「ブルーシートの家」が増えたのである。
その「ブルーシートの家」の多くも、今は立ち退かされた。山谷地区を形成した「日雇労働」は、「日雇派遣」に言葉を変え、ドヤ街も姿を変えつつある。「蟻の町」がそうであったように、遠くない未来に「山谷」も人々の記憶から消えていくのであろう。

2018年01月08日