山谷と暴動

 

1960年頃を皮切りに、山谷地区は「暴動の街」としての名を轟かせた。
最初の「暴動」と言われる騒ぎには諸説あるのだが、一般的に第一次山谷暴動と言われるものは、1960年1月1日に起こった。
山谷の日雇労働者同士が酔っていたこともあってパチンコ台のことで喧嘩になり、揉めているところに警察官がきた。
この警察官の冷たい対応に不満を持った労働者約500人が交番を包囲して投石暴行を行った。
このことは、新聞などで報道はされるものの社会を驚かせるほどの事件にはならなかった。
この時期は、日本中で闘争の火蓋が切られた。
60年代安保闘争もその最たるものであろうか。
そんな中、8月1日に起きた暴動が、山谷に注目を集め社会問題になるにいたった。
この暴動、第三次山谷暴動(他の数え方もある)と言われているものだが、通称「山谷騒動」とも言われている。
全容を記そう。
1960年8月1日19:50 
マンモス交番の二軒先のドヤで、友人に金を借りに来た酔った労働者と、それを追い返そうとしたドヤの管理人とで取っ組み合いの喧嘩となる。
同日20:10 
知らせを受け、マンモス交番(山谷地区にある交番の通称)より警官2名が駆け付け、傷害現行犯で2名を逮捕、マンモス交番に連行。連行中の労働者の顔の怪我を見て周囲の労働者は警官がやったと勘違いしザワつき始めたので、警官は急いでタクシーに二人を乗せて浅草署へ送った。しかし、それが周囲の不信買い、暴動の発端となる。
同日21:00 
マンモス交番に約3,000人が集まり、交番に中に火のついたヨシズを投げこみ、所内が燃えだす。消防車3台と装甲車が駆けつけたが、たちまち群集にとりかこまれ、消防車の1台は破壊された。機動隊460人、浅草署員130人が出動、群集は野次馬も含めて3,000人以上にふくれあがる。マンモス交番をぐるりとかこんでいて、投石、にらみ合いとなる。徐々に機動隊が列を整え、また群衆の中に紛れ込んでいた私服警官が投石者を次々と捕らえる。23時過ぎおさまりはじめた。
翌日00:00 
群集は1,000人程度に減るが、小競り合いは未明まで続いた。
この日の騒ぎで警官側は28人、消防署員は15人、労働者側は10数人が重軽傷を負った。一方、労働者側は10人(13人という説もある)が公務執行妨害、傷害、暴行、放火の現行犯で逮捕された。消防車1台の他に、乗用車3台全焼と報告されている。

騒動はこの後、再びぶり返し、8月3日には第二波が起こり、約800人が決起、交番へ投石暴行。
翌4日には2000人、5日には1000人、そして8日まで騒ぎは続いた。
労働者の逮捕者は45名に及んだ。
この後、山谷の暴動は80年代後半まで、「暴動」として扱われているものだけでも二十数回起こる。
大阪の釜ヶ崎(現在の西成区あいりん地区)も1961年に最初の暴動が起こり、90年代前半まで同じく二十数回の暴動が起こっている。
そして、暴動が起こらなくなった時期と重なるようにバブルの崩壊へと時代は流れていった。「棄民の街」「福祉の街」「ホームレスの街」へと転換していったのである。
私が山谷地区に初めて訪れたのはちょうどその転換期前半の1993年のこと。依然、殺伐とした「暴動の街」の姿がありながらも高齢の路上生活者が目立ち始めている時期でもあった。
山谷地区の歴史の一つである。

2018年01月08日