時は昭和、高度経済成長期における土木建築業を支えてきたのは日雇労働者によるところが大きかった。日雇労働者の多くは、寄せ場(日雇労働者市場)と言われる地域に集まり、簡易旅館(通称ドヤ)に寝泊まりしながら現場に向かうことが習いだった。三大寄せ場と言われたのが東京の山谷、大阪の釜ヶ崎、横浜の寿町。それ以外にも名古屋の笹島、福岡の築港など、各地の大都市に点在していた。
そもそも寄せ場とはどうして生まれたのか。
土木建設労働や港湾労働は、天候に左右されたり、工期の変動があったり、入港する船舶数などによって、労働力が大幅に変わる。業者はそれを、正規雇用労働者ではなく日雇の労働力を現場に送ることで収支の調整を取ってきた。実際には、業者は手配師(人足調達の中間業者:多くはヤクザ家業の人が担っていた)に依頼して、その日に必要な労働力をまかなった。手配師は職に困っている人を探し、逆に職に困っている人も手配師のいるところに集まるようになる。そうやって寄せ場は形成されていった。大都市ほど、そして港があるところほど仕事は多い。つまり東京と大阪、あるいは横浜に大きな寄せ場ができる。山谷と釜ヶ崎、そして寿町には、日雇労働者の居住として簡易旅館(ドヤ)が軒を連ねるようになったのである。
特に山谷と釜ヶ崎は大きな寄せ場であった。
ただこの二つの地域は、似ているところもあれば異なるところも多い。
よく言われることは、山谷はなかま意識が弱く釜ヶ崎はその意識が強いということ。一概には言えないが、東側の文化と西側の文化の違いも関係しているように思う。私見ではあるが、釜ヶ崎の労働者の言うところ「なかま」は、一致団結する間柄というイメージである。翻って山谷の労働者が口にする「なかま」というのは、もう少し都合のいい時だけの繋がり、たとえばお酒を奢ってもらったり、金を借りたりするといったイメージである。つまり、釜ヶ崎は組織的な繋がりがあるが、山谷は個人的な繋がりしかないといった感じである。もちろんすべてがこの限りではない。
地域の在り様も両者は異なる。山谷は労働者以外の住人が多くドヤだけが建ち並んでいるわけではない。一方、釜ヶ崎はドヤだけで地域ができていると感じるほどの「濃さ」がある。
いずれにせよ、今世に至っては、寄せ場はその必要性がなくなりつつある。日雇労働は日雇派遣にかわり、手配師ではなく携帯電話やパソコンが仕事を紹介してくれる世になった。寄せ場にあるドヤではなく、パソコンのあるインターネットカフェやマンガ喫茶に寝泊まりするようになった。つまり、非正規雇用の労働問題は形を変えながらも依然として残っている。しかしかつて寄せ場と言われた地域は、労働者の街ではなくなった。