友愛会の支援者への手紙 25

 

生活困窮者支援を続けてきて

友愛会が活動をはじめて18年になる。
35年以上前から山谷地区で炊き出しや無料診療所活動を続けてきた『山友会』から「住むところ」の支援をする部門として暖簾分けしたのが始まりである。
路上生活者をはじめ、身寄りがなく、あらゆる理由で生活に困窮する人たちの居住支援・生活支援の先駆け的な活動の一つとして活動を続けてきている。
このところよく質問されるのが「友愛会は人権擁護団体ですか?」というもの。
ちょっと違う気がします。
社会的弱者を助けているのだと言えるほどの活動はできているとは思えませんし、そう思って活動しているのかというと少しニュアンスが違う気がします。
私たちがかかわっている人たちはとても多様です。
当たり前ですよね、同じ人なんていませんから。
ただ、そういう意味だけでなく「弱い人」も「弱くない人」もいるというところでも多様です。
ちょっと語弊があるような表現でしたが勘弁ください。
たとえば、あるアルコール依存症の方がお酒を飲むために色々な策を巡らせます。
だましたり、泣き落としたり、他人のせいにしたり。そして、その都度、居直り、悪びれずに繰り返します。
もちろん、依存症自体が病気(障がい)として飲まずにいられなくなっているので、この行動や考え方自体がイコール「ダメな人」と見ては欲しくありません。
私たちがご飯を食べ、小便をするような生理的欲求と同様に飲酒欲求を持ってしまっている病気(障がい)なのですから。
ただし、その病気のため、本人は”したたか”に生きている部分があるのも事実です。
自分一人では回復しきれない病気(障がい)、そしてそのために受ける差別や偏見という「弱さ」を持っている一方、あきらめや居直りの中で作っていった”したたかさ”であったり、”自分さえよければよい”というちょっと困った「弱くない部分」も持ち合わせていることが多いのです。
何度も言うように、もちろんその「弱くない」部分も病気(障がい)やそれを抱えて生きていく中で身に付けざるを得なかったということもあります。
それでも、社会一般的に考えれば決して酌量できないほど「自分勝手」な行動であったり、「わがまま」な考え方であったりするものを持ち合わせているのも、側面的に事実だと小職は思います。
アルコール依存症の方のみならず、生活困窮者支援を続ける中で、「擁護」だけをすることが支援ではないと気づかされることが多々あります。
このホームページの「活動への思い」にも書かせていただいていますが、『私たち友愛会のつつましく小さな活動が、社会の側の理解、生き場所を失っている彼らの側の理解、といった双方への働きかけと、悪循環の中で育つ不条理への一解決となれば…』と思っているのです。
彼ら自身が、自分自身の「周りから見て良くない部分」や「気づかなくては生きづらいままになってしまう部分」への理解を求めることも、私たちが活動の中でいつも考えていることです。
「支援」とは、決して「弱い部分」に焦点化してたすけるだけではないと思っています。「弱くない部分」とりわけ「気づき・改めた方が良いのではと思える部分」に対して伝え続けることも「支援」だと思っています。
『弱い人』もいれば『弱くない人』もいます。そして、『弱い部分』もあれば『弱くない部分』もあります。
『弱い人』や『弱い部分』には、一般で言うところの「たすけ」は必要でしょうし、私たちもそういった活動を続けています。
かたや『弱くない人』や『弱くない部分』には、「伝える」ことが必要です。
だからこそ、私たちの「支援」にはまず、向き合うことが必要なのだと思うのです。

2018年03月02日