友愛会の支援者への手紙 22
本人こそ不安なのだ
統合失調症などにみられる精神症状の一つに“させられ体験”というものがある。
「作為体験」や「身体影響体験」とも言われているこの症状は、行為や動作を誰か(何か)に作られてしまうような体験のことを言いう。
私たちが日常的に体験することは、知覚(五感から感じる認識すること)であれ思考であれ、つねに「私(自分)がしている」「私(自分)のもの」という意識とともに感じられていると思う。
これを難しい言葉で言うと、「自我の能動性意識」あるいは「自我所属感」というのだが、そういった感覚が消失して、あるいは伴うことがなく、「外から作為される」「誰かに操られる」「勝手に動く」という感覚の体験するのである。
知覚ではなく思考の面にあらわれるなら、「考えが外から入ってくる」「考えに干渉される」「考えを抜き取られる」といった体験となる。
経験したことのない私は、多分この経験の本当の辛さを分かり得ないと思うが、どうしてもこの稿を読んでいる方に伝えたいことがあるのである。
私たちのかかわっている統合失調症の方々でもこういった“させられ感”にさいなまれている方が多くいる。
たとえば、Aさんは、車を運転していて駐車場に後進で停めるとき、白枠に合わせてハンドルを切っていたら、「ハンドルを切るのはもう少し後だ」という考えへの干渉と、『ブレーキではなくアクセルの方に足を動かされる体験』をした。
もちろん、結果は横に駐車されていた車にドスン!である。
Aさんは、車の持ち主がくるのを待って謝罪したが、自分の状況を上手く説明できるはずもなく、変な言い訳をするなと憤慨させてしまったらしい。
Aさんはその後自ら車の運転を止めた。
実際、自分の意思とは関係なく何かをしてしまうというのは、本人だけでなく周囲の人にとっても不安であろう。
それを承知の上で、私がここで強調したいのは、“させられ体験”に見舞われた人の気持ちである。
Aさんは、自分がぶつけようと思ってした訳でもなく、自分の判断ミスでぶつけた訳でもない。
それでもぶつかった事実に対して謝ったのにもかかわらず、「言い訳をして誠意がない」と思われてしまうのである。
Bさんに起きていることはもっと複雑である。
Bさんは、「幻聴」と「させられ体験」を主とした統合失調症であった。
本人の自覚では10歳以前から症状に苦しんでいたという。
男性であるBさんは、突然「させられ体験」によって、目の前の男性の局部を服の上から触ってしまうのだという。
Bさんが「同性愛ではない」と言っても誰も信じてくれなかった。
そんな中でも「させられ体験」だと分かってくれた人が一人あらわれた。
しかし、悲しいかなその人に「そんなに否定するのは同性愛者に対しての差別だ」と言われたという。
同性愛者を差別しているのではなく、自分の性のアイデンティティについて分かってもらいたいだけなのに…。
症状だけでなくアイデンティティも理解されないことに、彼の傷心はいかばかりであったか。
何故そういった“させられ体験”が起こるのかは分からないが、Bさんとのかかわりの中で、7~8歳の頃に父が隠してあった男色雑誌を見つけてしまったことがあると聞いたことがある。そのことが関係しているか否かは分からないが、彼の話ではその後まもなく精神症状を経験し始めたという。
Aさんについても、Bさんについても、分かってほしいのは本人がそうしているのではないということ。
本人も不安で仕方なく、辛く、苦しんでいるということ。
その症状への不安や怖さを周囲の人たちが持ってしまうのは否めないところもあるが、その症状を持つ人までも追い詰めないでほしいと思うのである。