友愛会の支援者への手紙 21
何処に立つのか
友愛会の活動を続けている中で悩ましいことの一つに「何処に立つのか」というものがある。
たとえばAさんとかかわる時に、どういったスタンス・立場・位置づけで支援するのかということである。
対人援助の仕事では、どこであってもそういった悩みや葛藤はあるのだと思うが、私たちがかかわる方々の支援では、それがちょっと「広範囲」なのだと思う。
住む場所がない、家族・友人などの人間関係がない、病気や障がいを抱えている、お金がない、悲観的であり投げやりになっている、自己決定できるだけの力がない…、そういったことが重なりあった方々への支援では、私たちは自分たちの役割が、「父親」、「母親」、「子」、「友人」、「福祉関係の人」、「医療者」、「よき理解者」、「代理人」などといった様々な側面のどれであるべきか、あるいはそのときどきで替えるべきなのかなどと悩むのである。
もちろん、自分一人でかかわっていくだけではないのだから、そういったその人に必要であったり、その人が欲している“役割”の人的資源を整えていくのだが、その時にいつも悩む状況が訪れるのである。
たとえば「医療者」としての役割を中心としてかかわりはじめたが、その役割でかかわってくれる支援者が出来たならば、他のまだいぬ必要な役割を担おうと考える。身寄りがなく、人間関係が希薄である方の場合、往々にして「よき理解者」のような“役割”を担う人があらわれない。私たちはその役割に立つことが多いのだが、そこで悩ましいことが起きる。それは、本人ではなく「医療者」の役割を担い始めた人との中で起きるのである。一般的に「医療者」や「福祉関係の人」などの対人援助職としてかかわる時は、『公人』としてかかわる。それに対して「父親」、「母親」、「子」、「友人」、「代理人」、そして「よき理解者」といったときは、『私人』としてかかわる。新しく「医療者」を担ってくれた人が自分のことを「医療者」(公人)として捉えていると、「よき理解者」(私人)としての役割を理解されなかったり、非難されたりすることがあるのである。でも病気の悪化を否として関わることを旨とする「医療者」(公人)の役割の人しか周囲にいなくては、本人は息が詰まるし、気持ちも荒んでしまうかもしれない。単なる「よき理解者」(私人)のような人がいて、たとえば「苦しくてもタバコ吸いたいなら吸ってもいいんじゃない」といったことを言ってくれる人がいることはとても重要である。ただ、それは対人援助職間では、「看護師なのにタバコを吸うことを推奨するのはおかしい」といった具合に、理解を得ないことが多いのである。
何処に立つのか。
『公人』としての立場・役割を担える資源・制度・人材が多くあるならば、あえて『私人』としての立場・役割にこそ、私たちは立ちたいと思うのである。