山谷と吉原

 

山谷地区の一町先には、吉原がある。
現在はソープランド街になっているが江戸時代は遊郭として賑わったところである。
遊廓は、別名で傾城(けいせい:客が城が傾くほどお金を使うという意)や廓(くるわ:城郭で囲まれたという意)とも言われていた。
江戸市中で、芝居(歌舞伎)の「猿若町」と「日本橋」、そして「吉原」は、“一日に千両落ちる場所”と言われていたようだ。吉原の敷地面積は20,000坪余り、最盛期では数千人の女郎がいたとされている。
女郎の年季奉公明けの平均年齢は27歳くらいで、梅毒などの性感染症による病死はさほど多くなく、寿命が短いというのは俗説である。「身請け(借金を払ってくれて妾や妻になること)」を含む年季奉公明け約8割に及んだ。そして、平均的な女郎としての稼働期間は10~15年ほどで、その後は吉原を出ていったようである。ただ、そのように吉原から出て行けず、非人として吉原に終生いなくてはならない者もいた。
一般的なイメージでは、吉原の女郎は借金によって奉公期間を売られた年季奉公の女性ばかりといったものであろう。実際の女郎には、重罪を犯して、今で言う終身刑にあたる「奴刑(しゃっけい)」に科された者もいた。
奴刑者が年齢を重ねて女郎としての仕事が難しくなった場合は、「やり手(女郎上がりの世話係り)」や「飯炊き」「縫い子」などになった。そして終生吉原で過ごしたのである。
ご存知のように、女郎には階級があって、才色兼備で人気を集めることができる女郎であれば、階級が上がっていった。最高の位は「花魁(おいらん)」である。花魁は気位が高く、若い女郎や禿(かぶろ)と呼ばれる女の子を従えていた。そして、誰でも相手をするのではなく、気に入らない男は袖にしたようである。遊廓は、非人街のため「治外法権」であった。外界の身分は関係なく、客は誰でも如何に粋な男かを見せようとした。吉原の人たちはそんな客が喜ぶような演出をして、そして儲けていたのである。
吉原の近くには、「投げ込み寺」と言われる浄閑寺がある。
浄閑寺にある女郎のための総霊塔には、“生まれては苦界、死しては浄閑寺”と刻まれている。
これまた一般的、病気などで死んだ女郎は浄閑寺に投込まれたと言われているが、最近の研究では、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者と「奴刑者」に限られて投げ込まれたとのことである。

そんな吉原遊廓と山谷の位置関係は、全く関係がないとは言えない。
浅草寺の北側、江戸の内外の境界線であった隅田川(昔は「大川」と言った)近くは被差別的な人たちが住む地が多くあった。
何故か、「地」に付きまとう由来とは何とも消えぬものである。
山谷地区も江戸時代には木賃宿が並び、泪橋先には小塚原の処刑場あった。
江戸期の「差別」がいまだに垣間見える「山谷のドヤ街」と「吉原のソープランド街」である。

2018年01月08日