友愛会の支援者への手紙 19

 

ある老女の受難

友愛会には、災害や事故によってそれまでの生活を壊されてしまった方々がやってくることも多々ある。
それは、ニュースになる程の大規模災害・事故などに際しても然りであるが、そればかりではない。
もちろん大規模災害・事故は、報道されることで多くの人がその惨状と悲嘆を目にし、そして色々なことを考え、思い、そして行動にうつす方もいる。
マスメディアの大切な働きであるし、その情報を受ける多くの人たちの良心に他ならない。
ただ当たり前ながら、災害にしても事故にしても、自分の知らないところで毎日起きていて、そしてその惨状と悲嘆にあえいでいる方々はいる。
そのすべてを知るべきだと言いたいわけではない。
しかしながら、そういった事が自分の目や耳に届かないだけで、いつも起きているということを、私たち友愛会のスタッフは日々直面するのである。
災害や事故だけでなく病気や事件も同じで、どれも見舞われた人にとっては理不尽であろう。
「なぜ私が」、「私が何をしたっていうの」…。
どうしようもないかな、決してその人がわるい訳ではなくとも、辛いこと、苦しいこと、悲しいことが起きてしまう。
それは、もしかしたら自分の身の周りにも大きい小さいと感じる別はあったとしても、日々起こりえるものであり、起こっていることであり、だからこそ心のどこかで忘れてはならないと思ってほしかったりもする。
随分前の話である。
Aさんは、三宅島に住んでいたのだが、噴火によって島を出なくてはならなくなった。
70歳を過ぎていて子どもはなく、近親者も老いた妹一人以外は他界してしまっていた。
1983年の噴火の時は島を出ずにすんでいたが、2000年の噴火では全島避難となったのである。
妹もAさんの面倒はみれず、観機能障害、糖尿病や変形性膝関節症など幾つもの慢性疾患を患っていた彼女は、避難者割当ての住宅での一人暮らしは難しく、友愛会に入所依頼がきたのだった。
島での生活と都会の生活の大きな違いの中で、しかも顔なじみの島民との交流も少なく、不安と焦燥にかられていた。
もともとよく酒好きで、普段から飲んではいたようだが、友愛会に入所後も影で飲酒を続けていた。
酔っ払って部屋で転んでいた時に、さすがに注意をしたら、「どうしてこんな目に…」とボソッと言ったのをよく覚えている。
避難から4年が経って彼女におかしな症状が現れはじめた。
加齢による脳の萎縮にアルコール性の脳の萎縮が重なった認知症であった。
まだらな認知症状がある中で、彼女が何度となく書いていた「なぜ自分ばかり」と嘆くメモを見たことがある。
避難から5年、三宅島への避難指示が解除され、島に人が戻りはじめた。
彼女も戻りたがっていたが、役所や福祉事務所は首をたてに振らない。
認知症状が出ているのである、ある意味当然であるが、私たちは何とか出来ないものかと思っていた。
そんな折に、妹さんが島に戻ることにしたとの連絡が入る。
近所に住んでいた知り合いの島民もAさんの日常の世話を手伝ってくれそうだからということで、島に戻る目途がついた。
竹島桟橋の埠頭までAさんを見送り、満面の笑みで船に乗っていく姿にホッとする。
もちろん、認知症が進む中で帰島に危惧もあるが、彼女の不条理な自分を嘆きながら酒に溺れる日々を、空論なる説得をしてしまう我々の話を聞きながら過ごすより良いと思えた。
数週間後、Aさんから小包が届く。
島に自生するアシタバがどっさり入っていた。
そえられた手紙には、「私ばかり良い思いができて…」と書かれていた。

2018年01月19日