友愛会の支援者への手紙 18
障がいと触法
2012年の7月、一つの裁判員裁判の判決が大きな波紋を呼んだのを記憶している人はいるであろうか。約30年の引きこもりの末、自宅で姉(当時46歳)を刺殺したとして、殺人罪に問われた42歳男性の判決である。
大阪地裁で行われたこの裁判で、裁判長は「彼に対して社会の中でアスペルガー症候群という発達障がいに対応できる受け皿が何ら用意されていない」「許される限り、長期間刑務所に収容することが、社会秩序の維持にも資する」などとして、検察側の懲役16年の求刑を上回る懲役20年の判決を言い渡した。
行き場がないからムショに入れておけ…、世論が加わった法廷において出された判決は罪に対する刑とは異質のものが混ざったようだ。
この事件の経緯を大まかに説明する。
被告人の男性は、小学校5年の途中から不登校になり、以来、約30年にわたって引きこもる生活を送ってきた。その間何度も、家に引きこもっていては駄目だからやり直したいと思い、転校や自分のことを誰も知らない遠い場所への転居などを両親にお願いしていた。しかし結局、転校も転居も出来ないのは姉のせいだと考え、長期に引きこもったのも姉のせいであると勝手に思い込んで恨むようになっていた。そんな背景の中、彼の自立を願って接していた姉への妄想的な恨みは増強し、終には自宅にあった包丁で犯行に及ぶ。多数回突き刺し、姉は1週間後に死亡したという経緯であった。
この判決に憤りを感じながらも、確かに社会的受け皿は少ないことは事実であるのは否めない。それは単に家族を中心とした受け皿だけでなく、障がい者施設などの受け皿も少ないということである。無知から生まれる障がいに対する抵抗感や不安感に加えて、犯罪に対する恐怖感や嫌悪感が重なると、施設を作ろうにも近隣住民からの理解を得られず作れない。たとえ偏見からくるものであっても、自分たちの身近な生活環境にリスクを増やそうなんて思うことは出来ないものである。核廃棄物処理施設の建設地問題や米軍基地移転問題でもわかるように、どうにかしなくてはならないと思っていても、「怖い」、「何かあるかもしれない」ことを、積極的に歓迎する人はいないに等しいものである。そうして、「受け皿をなくす」ことをしてきた私たち社会は、そんな自分たちの行いを棚に上げて、今度は「行き場所がないからムショに入れておけ」とのたまうのである。
友愛会にも触法歴のある障がい者の利用依頼が多々ある。「訪問看護ステーションゆうあい」にくる精神科訪問看護の依頼もさることながら、「友愛ホーム」などの施設への入所依頼にも触法歴のある障がい者が多い。悩ましいのは、“来る前”と“次の行き場”である。
刑務所を出所後に行き場がなくて友愛会にきて、友愛会を出ていこうにも他に生活を営める場が見つからないのである。もしも利用者同士の衝突などがあって無断退所、失踪などに至った場合、路上生活に陥るのは必定。否、いきづまりから再犯につながることも否定できない。実際、友愛会の十数年の活動の中でも後悔の念に覆われるケースが少なからずあった。
障がいと触法にまつわることは、これから社会問題として閉眼していられないものになっていくであろう。それは、ここで書いてきた社会的な受け皿が少ないことだけでなく、障がい性と犯罪性を過度にオーバーラップさせて考える偏見や、精神鑑定と責任能力についての判断基準なども容易に解決できないものであるが、とても人権にかかわることだからである。いまだに平然と私たち社会が選択してしまう「不安・恐怖からの拒否・排他・隔離」といった思考以外の思考を見出さねばいけない。
そのためにも、まずは何より無知からの脱却が必要であろう。