友愛会の支援者への手紙 16

 

「失った生」と「失った死」

時として全く想像もできなかった「思い」や「感情」に出くわすことがある。自分の「思い」や「感情」でさえ、いい年をしてからはじめて持つこともあるのだから、いわんや他の人のそれらに想像が及ばぬこともあって然りである。それでも出くわした後は、自分の想像に加えていきたい。それが少しでも相手の辛さや、悲しさや、苦しさに気づけるものとなるならば…。
もう十数年前の話である。Aさんが友愛会に来たときはまだ30代だった。彼は大変な病魔に侵されていた。その当時「生きられない」と言われていた病気、AIDSであった。リストラが当たり前になっていた1990年代末、Aさんは仕事を失い再就職先もなく、ホームレス生活を余儀なくされていた。訳あって連絡をとれる身寄りがなく、数年路上生活を続けていたAさんは、息苦しさと咳に襲われた。風邪かと思っていたがひどくなるばかりで、挙句にはホームレスの知り合いが救急車を呼び病院に搬送された。「カリニ肺炎」、彼の症状についた診断である。この肺炎は感染に対する抵抗力(免疫)が正常な状態では起こらない。検査の結果、AさんはHIV感染によって免疫不全となっており、そのためにカリニ肺炎を発症していた。つまり、AIDSであった。
専門機関のある大病院に移り、当時はまだ効果も弱く数も少なかった治療薬を併用しながら治療を受けはじめた。安定してきたところで、退院のための生活の場所を探し、友愛会に依頼がきた。友愛会の施設に入所することになり、今後の治療と生活について相談していても、Aさんは投げやりな受け答えしかしない。無理もない、当時のAIDSの診断・告知は「死の宣告」に他ならなかった。「あなたは近いうちに死にます」と言われたに等しい。友愛会に来てからもAさんは荒んだ生活を続けていた。酒を飲み警察に保護されたり、怠薬したり(HIVの内服治療は怠薬などで途切れると効果がなくなり、再度調整しなくてはならない)といった毎日であった。検査でもウイルス数は増え、免疫の検査値は下がり、水道水を飲んでも感染するのではといった状態に陥った。
そんな彼が少しずつ前向きになるきっかけになったのは、「目標」を見つけたことだった。生活保護の生業扶助を利用して会計士の勉強をはじめたのである。病院のAIDS専門コーディネーターと生活保護のケースワーカーなどを含めて、本人といろんな話をした。どうせ死ぬのだから治療をしても意味がないし、いつも不安で、酒でも飲んでいなくちゃどうにかなってしまいそうであると言う彼に、何か打ち込めることを探そうと話した中での彼の選択であった。勉強のために専門学校に通ううちに、怠薬はなくなり、笑顔も見せるようになってきた。3年間専門学校に通い、その後は自主的に図書館などに通い、かれは勉強を続けた。会計士になるためには、幾つかの試験を合格しなくてはならないのだが、一つずつ合格するまでになっていた。そして、時はいつしか10年近く過ぎていた。
そんな穏やかに過ぎていた毎日の中で、Aさんは自分の中にある違和感に気づいたようである。突然の失踪…。一週間ほど行方不明になった後、手元のお金がなくなり、夜中に都内のB公園近くの交番に保護された。迎えに行ったスタッフとともに友愛会に戻ってきたとき、髭面になっていた彼の姿より、その空虚で生気のない「目」に、私は只ならぬ彼の変化を感じた。二人でコーヒーを飲みながら沈黙が続く。
Aさんがゆっくりと語りだした。
「分からなくなったんだ」
か細い声だった。
「何がわからなくなったの?」と聞き返した私に、彼はこう答えた。
「僕の命は期限付きだった。数年で死ぬと諦めた。どうせならと会計士になる勉強をはじめた。何かに打ち込んでいたら気もまぎれると。そうして、いつの間にか10年経った。僕は死んでいない。僕はまだ死なないと気づいたとき、怖くなったんだ。死ぬはずの自分が生き続けてしまったら、どうしたらいいのか分からなくなったんだ」
私は言葉を失った。確かに10年の間に、AIDSは確実に「死ぬ」病気ではなくなっていた。新薬が多く開発され、完治はしないまでも薬物療法を的確に行えば病気の悪化は十分に防げるまでに進歩していた。そしてAさんは生き続けてこれた。嬉しい以外の何ものでもないと私は思っていた。いや、思い込んでいた。
Aさんは、話を続けた。
「死ぬなら…、何やっても結果死んでしまうなら、『大いなる挑戦』『大いなる挫折』で終わる、そう思っていた。だから会計士の勉強もできた。僕は頑張ったけど死んでしまったんだと言い訳できるはずだった。死を前提に生きてきたんだ。死なない人生なんて僕にはなかった。生き方が分からないんだ。10年、20年、30年生きる人生は、生き続けるための生き方は10年前に僕から消えたのに」…。
「これから考えていけばいいじゃないか。なりたかった会計士になるのもあと一歩のとこまで来てるじゃないの。捨て鉢な人生ではなく、積み重ねてきた『生き方』がAさんにはあるじゃないか」
そんなことを言い返しながら、私は彼の告白に、正直動揺していた。
「そう何度も考えた。考えてもやっぱり分からないんだ」と答える彼の声は、やはりか細かった。
その後、Aさんは数週間後に再び失踪した。そして友愛会には戻らなかった。数か月経って、他県で保護されたと知らせが入った。自分を知っているところには戻らないと彼は言っているとのことだった。安堵と切なさが交差した。自分で命を絶つようなことをしていなかったことへの安堵、そして、未だ彼が「失った生」を取り戻したことよりも「失った死」を受け入れられていないことが切ない。
それから数年、Aさんが語った「生き続けられることで分からなくなった生き方」という「思い」や「感情」は、私の想像には留めている。そんな「思い」や「感情」もあるのだと。そんな辛さ、悲しさ、苦しさもあるのだと。ただ、その想像には、切なさが重くのしかかる。

2017年12月30日