友愛会の支援者への手紙 1
明け方の蚊取り線香
「引出がなくなる」、「八方ふさがり」。スタッフが最近、これに似た言葉をよく口にします。何をしていいのか、どこに次へ進む答えがあるのか、それがわからなくなることが私達の活動の大部分をしめているようです。まるで季節を違えた渡り鳥のようにとでも表現すればいいのでしょうか。
私ども友愛会は、「宿泊所」と言われる施設を4ヶ所運営しています。この「宿泊所」というのは、生活保護を受けている方で身寄りがない方や高齢の方、慢性疾患や心の病の方、年金を受け一人暮らしの方、無認可の金融機関での借金を作ってしまった方、家庭内暴力から逃げてきた方など、様々な理由で生活の場に苦労する方々が利用するところです。特に昨今は、心の病を患う方や、これまでの苦しい自らの人生のため頑なに心を閉ざす方などが多く利用しています。本来、「宿泊所」というのは、第2種社会福祉事業施設という社会福祉法上の認可を得て、「火災・立ち退き・高家賃等により住宅に困っている低所得の人及び生活困難等により住宅確保のできない方」(社会福祉の手引 東京都刊行物P202)を対象としたものです。しかし、現実的に利用者の大半は、「路上生活者」「野宿生活者」「ホームレス」などと呼ばれている住所不定の方々の一時的あるいは緊急的な生活空間となっています。
ホームレスになってしまうのはどうしてなのか?もちろん、その答えは十人十色ですが、多くの方は借金が端を発していたり、日雇い労働で生活していたが高齢になり収入もなく年金も受給できない場合や、家庭内暴力から逃げてのこと、あるいはリストラなどが多いでしょうか。皆さんは「そんなことは頻繁にはないだろ」と思われることでしょうが、私たちの周りではよく耳にするのです。たとえば、勤めていた会社が倒産し、家族に愛想をつかされ一人になり、自殺しようとしたが死にきれず路上生活者になるといった話はそんなに珍しい話ではありません。「好きで路上生活をしているのだろ」といった声を巷で耳にすることがありますが、路上生活者の大半は、自殺などを考え、でもそんな簡単に死ねるわけではなく自分のプライドを捨て、「路上生活は好きでやっているのだ」と自分にも他人にも言い聞かせている方が多いのです。これは、推測で言っているのではなく、私自身が今まで話してきた多くの路上生活者との会話がそれを裏付けてくれます。路上生活者のみならず、一様にしてホームレスになるきっかけは、家庭内暴力から逃げた人にしろ、知的あるいは精神障害を持つ身寄りのない人にしろ、自分ではどうしようもないことがほとんどなのではないでしょうか。そうでなければ誰が好んで住む家もお金も家族もない生活を望むでしょうか。
友愛会のスタッフは、宿泊所に入所してくる様々な悩みや病いを抱えた人たちと、その悩みの解決、病との付き合い方を一緒に考えながら、利用する人がよりよい生活を営めるようにと日々の活動に取り組んでいます。私を含め、なにぶん若いスタッフが多いため、利用者の平均年齢が60歳を越えていることを加味すると、利用者の子や孫の世代といって良いでしょう。当たり前のことながら人生の先輩である利用者の皆さんと、たとえばアルコールを断つために日々がんばっている人や、仕事をやる気になれない人などと一緒に克服または自立に向けて歩むにも、この年の差はいかんともしがたい壁となる場合があります。利用者本人にとって自分を律するための厳しい選択をするのですから、魔がさすときや逃げたくなるときなどの誘惑はいっぱいあるでしょう。そんなとき、自分の子供より若いスタッフの正論としての言葉は、腹が立つでしょうし、えらそうにも聞こえるでしょう。年の差のみならず、彼ら利用者の様々な体験を、私たちスタッフは実感として知らないのですから、「いつも正しいことを言うが、そんなことは知っている。できないものは仕方ない」と思われて当然なのでしょう。
人にかかわる仕事というのは難しいものです。特に、医療や福祉といった何らかのお手伝いをする仕事は、相手に我慢することを要望したり、できないことをできるようになろうと背中を押したりすることが多い仕事です。分かりやすく言うと「変わるためのお手伝い」といえばよいでしょうか。しかし、「変わる」なんてことはそう簡単にできるものではありません。しかも、歳を重ねた人たちが今までの自分を変えるなんてことは、それは100,000ピースのパズルを組み立てるより難しいでしょう。それが自分ではなく、相手(他者)が変わることへの参加となるとなお更です。そして、私たちお手伝いをする者が誤った感覚を持つならば、要望が強要になり、背中を押すことが無理やり手を引くことになることだってあります。その人の生活であり、その人の人生。私たちがどこまでかかわることが良いのかと日々スタッフは悩みます。「私のしていることは押し付けではないのだろうか」「私に彼らの考えに口出しする権利なんてあるのだろうか」と。
悪く言えば“お節介”なこの活動に対し、私自身は「変える」のではなく「伝える」活動だと解釈しています。答えを求めるものではなく、考えるきっかけや材料をそこに提示する仕事。そのきっかけや材料を使うか使わないかは、本人の選択でしょうし、より多くの材料があり、間違った材料に本人が気づけばそれが次への一歩になると思います。そのとき「伝える」ことに私たちが真剣に取り組めば、たとえその場で伝わらなくとも言葉と思いが彼らに残る。この残ったものが「きっかけ」や「材料」になるのであれば、それこそが私たちの活動が“お節介”から“お手伝い”へと意味を持つものになると信じて活動しています。
答えを求めない活動というのは、目に見えるゴールがないことであり、進む方向をなかなか設定できないことといえます。ぐるぐる回っているだけで、闇の中にいるように思えることもあります。でもそれは、暑い夏の夜に焚く蚊取り線香と同じでしょう。暗い夜にいっこうに進まない火であり、くるくる回っているようでも、夜明けは必ず来るものであり、蚊取り線香は朝にはその火を真ん中まで進め、その蚊よけという自分の仕事を全うするのです。私たちの活動も明け方の蚊取り線香になれるものでありたいと思います。