山谷と猿若

 

浅草寺から北の“奥浅草”が、両国と並び江戸で最も栄えた繁華街であったのは、猿若町と吉原の存在があったからであろう。
猿若町は歌舞伎小屋が建ち並ぶ「芝居町」であり、吉原は遊廓が建ち並ぶ「傾城」である。
「傾城」と書くと聴き馴染のない方も多いであろうか。
大名さえも花魁に心奪われ城が傾くほど金を使うという意味でこのように呼んだ。
「猿若」の由来は、初代中村勘三郎が猿若勘三郎と名乗っており、彼がこの地に最初の芝居小屋を建てたことだという。
この猿若町と吉原の間を山谷堀という水路が流れていた。
江戸城下から大川(現在の隅田川)を舟ですすみ、山谷掘に入って猿若町や吉原の船着場で降りる。
江戸期の山谷周辺は、何とも賑わいに満ちた地域であったのだ。
当時詠まれた川柳に『浅草に意馬心猿の道と町』というものがある。
“意馬心猿”とは、「煩悩や欲情のために心の乱れが抑えられない」という意味。
吉原へとつづく道は「馬道」と言われていたことと、猿若町の「猿」に掛けて詠まれたものである。
賑わっていたとは言え、「見世物(芝居)」や「色売り」は、当時は被差別的な仕事であった。
近現代の「労働者の街 山谷」、「棄民の町 山谷」へと続いていく、山谷辺りの歴史である。
猿若町の今は、その面影をほとんど残していない。
碑石がビルの傍らに残るだけである。

2018年01月08日