活動への思い

車椅子での路上生活は何日目なのであろうか


私たちが思う口惜しい現実と活動への思い

私たちが、友愛会を作り、今の活動をはじめたのは、行き場のない不条理に立ち向かいたいためでした。
たとえば、路上で生活していた方が身体を壊し病院に運ばれる。法律上で記載されている通り人道的な観点から生活保護が適用され入院費用などが行政によってまかなわれる。必要な医療と最低限の暮らしは保証されるのですが、路上生活をしていた方は、路上生活に陥る前や路上生活をしていたときに、社会の冷たさをしり、家族を失い、自分のプライドさえも捨てさったかもしれず、なかなか心を開いてくれなかったり、病院や施設でのルールも守れなかったり、周囲の人と問題を起こしたりすることなどが多々あります。しかしそれは、「わがまま」という言葉によって整理され、彼らはより行き場所を失い、また彼らに対する社会の目はレッテルを築いていくように感じます。その上、病院や施設ではそこに居られる期間が決まっており、安定した生活もままならない。病院にいたっては3ヶ月以上の入院は出来ず、施設であっても老人ホームなどの終身型施設を除いて入所期間が決まっています。もちろん彼らが自分の生活を作る上で努力しなくてはならないことがたくさんあるでしょうし、単にわがままを言っていることもあります。ただ、彼らが置かれている立場は、社会の思い、彼らの虚無感・あきらめ、制度の不適合などが重なり合った中で繰り返す悪循環に思えてならないのです。
路上生活の経験者だけではありません。精神や知的な障がいを抱える人も居場所をなくすことが多々あります。たとえば、軽度の知的な障がいがある人が養護学校を卒業後に就労する。頑張ってはいたがうまくいかずに仕事を辞めてしまった。障がいが軽度なだけに「障がい雇用」などは抵抗があり一般求職活動をしますが、どこに行ってもうまくいかない。その上、家族との関係が悪くて絶縁状態などになっていたとしたら・・・。「障がい雇用」などを選択すればいいのではとも考えますし、すすめもします。しかし、本人が是としないまま働くと、結局は続かない結果になってしまいます。そんなのはわがままだとも言えますが、それを理解できるだけの知的能力、判断能力が障がいによって侵されているとしたならば…。

住む場所がないつらさ・・・、話を聴いてくれる人がいない寂しさ・・・、自分を表現できない憤り・・・。

私たち友愛会のつつましく小さな活動が、社会の側の理解、生き場所を失っている彼らの側の理解、といった双方への働きかけと、悪循環の中で育つ不条理への一解決となればと思っています。