友愛会の支援者への手紙 37

 

私たちの暮らしとニュースの接点

被害者の対照に加害者がいる…。
私たちは、何らかの出来事を見るとき、そんな関係性で見る。
主観的にも、客観的にも、対義性の中で捉えていく。
しかしながら、現実とは不思議なもので、被害者の対照に被害者がいることが起こりえるのである。
一つ例をあげよう。
……マンションに住んでいて、上の階の住人の「音」がうるさくて気になる。しばらく我慢したが、我慢できなくなり静かにしてくれるように話に行く。相手が変な人だと困るが、下手に出ては伝わらないので毅然と言うと、社交辞令のように笑顔で受け流された。これからも続くのではと思い困ってしまった……。
この場合、下の階の人が『被害者』で、上の階の人が『加害者』と考えることが多いであろう。
上の階の人の視点から書いてみよう。
……集合住宅なので周囲の住人に気を遣い、掃除や洗濯などの生活音が出るものも土日の日中にするように心がけていたのに、下の階の人がヒステリックな口調で「常識がないのでは」と文句を言ってきた。一応謝りはしたが、今後の近所付き合いを考えても面倒な人がいるものだと困ってしまった……
この場合、皆さんはどう感じるであろうか。
つまり、被害にあっていると思っている人は、相手を加害者だと思う。それではその“加害者”は自身のことを『加害者』だと思っているのかというと、そうではない場合も多分にあるのである。
つまり、『被害者の対照に被害者』という構図になるのである。
この感覚のズレを整理しない限り、話は平行線をたどり、その中で互いへの「そちらが悪いのになんて態度だ」という思いが募るのである。
主観的立場にいなくても、このズレには陥ることがある。
それは、どちらからその“事実(出来事)”を聞くかによって、客観中庸性には偏りが生じるからである。
それを理解出来ていて、双方から話を聞いたとしよう。
双方の感覚のズレが分かったとして、今度はそれを双方に伝えることに困る。
「そんなのは相手の勝手な言い分だ」となってしまうのが火を見るより明らかだと感じることが多いであろう。
『相手の立場に立って…』ということを色々な場面で言われる。
周知のとおり、相手の立場に立つというのはなかなか困難を伴うことなのである。
それでも、この話と共に心のどこかに刻んでほしい。
今立っているのは、自分の“立場”にほかならないということを。
私たちの暮らしの中にあるこのような出来事の延長上に、ニュースで報じられる「過激派テロリストの事件」のようなことがあるのではないかと。
「対立に向かう感情」を不作為の中で作り上げるのではなく、「対話に向かう感情」を不作為であっても作りだせるために、心のどこかに刻んでほしいのである。

2018年07月29日