ナイフとフォーク

電車やバスなどの交通機関に乗ると、当たり前のようにシルバーシート(最近はプライオリティシートの方が通じるでしょうか)があります。

ある意味では、社会が障がい者や高齢者を受け入れているあらわれのようにも見えますが、反面、決められた席を確保しなくては、私たちは席を譲ることができないのかとも思います。
本来なら、そんな席を作らなくても譲り合える社会こそが、健全なものだと思うのです。

友愛会で活動していると、このような社会の矛盾がよく見えてきますし、その矛盾にさいなまれることが多々あります。

たとえば、アルコール依存症の方が生活保護を受けているとします。
現物給付である医療扶助などは別として、生活保護は基本的には本人への現金給付です。本人が福祉事務所に取りに行く、もしくは本人の通帳に振り込まれるものです。

アルコール依存症の方が現金を手にしたらどうなると思いますか?
そうですね、飲んでしまいます。家賃代も生活費も、すべて酒代にかわってしまいます。

もちろん、「そんな奴に生活保護を出すな!」という批判の声もあるでしょう。
しかし、アルコール依存症は、れっきとした「障がい」です。

ある意味、本能の障がいとでも言えばいいでしょうか。
彼らにとって「飲まずにはいれない」ということは、依存症でない人の「眠らずにはいれない」と同じようなものです。

生理的欲求と化した飲酒欲求は、本人の意志だけでどうなるものではありません。
回復への支援が必要不可欠な障がいなのです。

話を元に戻しますが、私たちは、そんな彼らの生活の破綻を守り、障がい回復の手助けのために、金銭管理の手伝いをします。

もちろん、本人が「お酒をやめたい」という意志があって、はじめてできることです。
(意志だけではどうにもならないと言いましたが、まず本人の意志がなくては始まらないので。)

本人がどうしても断酒への意志を持てない間は、出来ない事です。
本人が気持ちのどこかで酒をやめたいと思っているならば、障がいに負けないよう手伝うことが必要です。

しかし、本末転倒かなと思うのは、本人への現金給付では、彼らの意志の中に断酒への思いがあっても、「魔がさすこと」(本当に意志だけでは止めるのは難しいのです)を助長してしまうことです。

制度で決まっているからとはいえ、何のための生活保護費なのかと、苦虫を噛んでしまいます。
本人給付の厳格化の背景には、悲しいかな、金銭管理と称して本人への生活保護費を流用するような事件があるからです。

私たちの活動は、「制度がそうなら仕方がない」と考えては、何もできなくなります。
もちろん、ルール(制度)をないがしろにするという事ではありません。

矛盾を生む構図を明らかにし、一つ一つ丁寧に、ルールの本来あるべき解釈を探し、各々に伝えて理解を得ていかなくてはならないのです。

世の中の事象は、「正しい解釈」が1つということはありません。
片側から見れば「正しい解釈」でも、逆から見れば「正しい解釈」とは言えないこともあります。

昔、南アフリカがまだアパルトヘイトの只中にあったとき、スティーブ・ビコ氏がこんなことを言っています。

「リベラルな白人は、私たちのことをかわいそうと思って食事を与えるとき、テーブルにつかせ、ナイフとフォークで食事を食べろといってくる。彼らリベラルが考える対等とは、自分たちの文化の中での『対等』という考えである。私たちはそんなことを望んでいるのではない。私たちには私たちの食事の文化がある。私たちは、自分たちの培ってきた文化の中で、私たちの食事をとりたいと言っているだけなのだ」

大概、マジョリティの中で正しいと思われていること、当たり前に良いのではと考えられる事に対して、われわれは盲目的に、疑問を持たず、「それでいいのだ」と思ってしまうことがあります。

しかし、そんなちょっとしたところにこそ、大切な視点が隠れているものです。

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