山谷と泪橋

      現在の泪橋交叉点


山谷地区の真ん中に、明治通りと吉野通りが交わるところが「泪橋」交叉点である。
その昔、この地には「泪橋」という橋が架かっていた。
ちばてつや氏の漫画「あしたのジョー」で、主人公の矢吹ジョーが通うボクシングジム「丹下ジム」があったのは、この「泪橋」の下という設定である(もちろん架空である)。
いかにも労働者の街「山谷」の哀愁が感じられるネーミングの橋だが、実際に橋が架かっていた時期は江戸時代であり、名前の由来も山谷とは別のところにある。
江戸時代、浅草から日光街道の裏街道を来ると、山谷の辺りは千住宿の棒鼻にあたる地域であった。
棒鼻とは宿場町の一番外れにあたるところであり、宿場町の中心の旅籠とは逆に、貧しい行商・旅人や無宿人が泊まる木賃宿(雑魚寝の安宿)が建ち並んでいた。
そう考えると、現在の山谷のドヤ(簡易旅館)街の源流はここにあるのだが、その話は横に置いておこう。
つまり、最初の宿場町である千住宿の外れでありながら大川(隅田川)の内側、つまり江戸市中になる「山谷」は、“境”の地であったわけである。
「泪橋」はそんな“境の地”の中の小川に架かっていた橋なのだが、実は別の意味でも“境に架かる橋”であった。
泪橋を渡った先には小塚原(こづかっぱら)処刑場があった。
罪人の処刑場である。
歴史上、小塚原処刑場が登場するのは大きく二つ。
一つは、杉田玄白が解体新書を発刊する前に実際の腑分け(解剖)を見るために来たのが小塚原である。
もう一つは、「安政の大獄」の処刑地。
今でも安政の大獄で殺された吉田松陰や橋本佐内の墓がある。
小塚原に向かう罪人は、今生の別れに涙しつつ、「泪橋」を渡ったのである。
見送る人たちも同じくこの橋越しに涙したのであろう。
それが橋の名前の由来である。
ちなみに、泪橋が架かっていた小川の名は「思川」といったそうである。
思いの川に泪の橋が架かる…。
何とも哀愁を感じる名である。
思川は暗渠になり、橋は道路となった今、交叉点の名だけが江戸の当時を偲ばせる。
ただ、日雇い労働者の街「山谷」の泪橋交叉点になってからも、労働者の血と汗と涙は、この地にしみ込んでいる。

2018年02月05日