友愛会の支援者への手紙 2

 

理解への追及

「理解する」。この意味を考えると、いつも解らなくなります。理解するってどういうことなんでしょう。たとえば、私のように人との関わりの中にある仕事をしていると、その人を理解するということの難しさに日々直面しています。理解するということの答えは、私のような若輩者には解るものではないですが、理解するための自分自身の準備の仕方は解ってきました。あくまでも私見でありますが、「解かる」への第一歩は「疑問」を持つことにあるように思います。
一昔前までのインドにはカースト制度という身分階級制度がありました。皆さんご存知と思いますが、近年、制度自体はなくなったとされています。しかし、未だ根強くその思想は残っています。5,000年の歴史があるといわれているこの制度は、ヒンドゥー教との結びつきが強く社会への影響力はなかなか消えないのでしょう。この階級制度の威厳性は、世襲的な永続性によるものです。そのカースト(階級)にあるのなら、よっぽどのことがない限り、いつまでたってもそのカーストでなければならない。生まれた時点で階級の低い子は、どんなに望んでもテレビを見、車に乗る生活はかなわないかもしれないのです。 
ここでこのカースト制度に触れたのは、理解についてのちょっとした例え話をしたかったからです。
 “アチュートという身分(カースト制度の中ではカースト以下とされ「不可蝕賤民」と訳されている人たち)の物乞いをしていた女性が、子をやどり、貧民街の路地で出産をした。彼女は、自分の子が生まれるとすぐに、その子の手足を石に打ちつけ骨を砕いてしまった。それを見ていた周りの人は、彼女にやめるように叫び、体をおさえようとした。”
とても凄惨な話です。聞けば誰しもなんとひどい話だと思い、この女性に対して怒りを覚えるのでしょう。自分の子を傷つけるなんて、と。それが我々の「理解」です。
そこで、「疑問」を持ってください。いや、皆さんは「疑問」を持つでしょう。何故自分の子にそんなことをするのか・・・と。続きを書きましょう。
彼女は何故そのようなことをしたのでしょうか? 実は、身分制度のある世界ならではの悲しい理由がそこにはあるのです。先に触れたように、カーストでの身分は、ほぼ永続的に子々孫々まで続くものです。アチュートというもっとも低い身分であった彼女は、物乞いをすることでしか生きていく術がなかったのですが、その子も生きていくには物乞いをするしかないのです(もちろん絶対ではないのでしょうが)。彼女が愛息の手足の骨を砕いたのは、物乞いとして生きていくのによりみすぼらしく悲惨に見えなくては施しがもらえないことを知っていたからでした。こころの中で泣きながら、わが子を石に打ちつける彼女の行為について、あなたならどのように考えますか?決して良い行いではないかもしれませんが、その子が生きていくためにと思った行動。女性に対しての怒りは別のものへと変わるのではないでしょうか。そう、階級制度という悲しい足枷のある社会の中で、究極とも言える選択に迫られた彼女の心情を考えずにはいられないものです。
私たちの「理解」とは、このようなものなのでしょう。その本当の意味が解るのかといえば、その答えはNOです。このたとえ話の女性が本当はどのように思っていたのか、どれほどの苦しみがあったのか、それは階級制度のない国で生活する私たちには想像できないものかもしれません。それ故、絶対的な理解はNOでしょう。自分の知りえる現実や情報と、想像し考えられる範囲でしか推し量れないのですから当たり前ですが、このたとえ話のように、ともすれば私たちが日ごろ思っていることは、全く違った感情や答えになるかもしれないことが数多くあるのでしょう。あなたの身の周りにいるあなたが良い感情を持っていない人はどうでしょうか。あなたが不快に思う発言や行動の裏に何らかの理由はないでしょうか。まぁ、それを知っても気の合わない人はいるかもしれませんが。
私は、日々色々な人と関わる活動をしている中で、その人が何を考え、何を思い生きているかを理解したいという気持ちで覆われます。私たちの活動は、病気が良くなるための時間と場所を提供するためだけでも、借金を整理するために色々な資源を紹介し話を聞くだけでも、はたまた自立した生活のためアパートを見つけるために一緒に歩き回るだけのものでもないのです。それらの活動を行う根本には、現在の友愛会での生活に至った彼らの奥に潜む棘(とげ)を見つけることが必要なのだと思うからです。その棘にこそ、自立のためのカギや安心した生活へのカギがあるのではと思うのです。私たちが見つけることはとても難しいことです。「理解」は難しいのですから。ただ、その棘を彼ら自身が見つけるためのお手伝いをしたいのです。そうでなくては、様々な活動は、土台のない「やぐら」を立てるのと変わりないと思えるからです。
理解する・・・。ある意味では、ほとんどのことは「解かったつもり」でしかないのかもしれません。しかし、「解かりたい」という、その「理解」への追及こそが、私たちの活動の中では、彼ら自身の棘を彼ら自身が見つけ、抜くことへの一歩に役立つものだと思います。
「疑問」を持つこと、それは自分の「理解」が不完全なものだと知ることによって出てくるものなのでしょうから、「違う」、「間違ってる」とか「だめ」「気に食わない」と否定的に思う自分に対し、ちょっと一息ついてから、何故そのように考えるのか、何故そのようなことをしたのかと考えたいものであり、スタッフともしばしば言い聞かせ合います。
理解への追求は、その目的が「理解」するためのものでなくてもいいのではないでしょうか。色々な意味で「理解」が難しいのであれば(先にも触れたように気の合わない人もいますし、別の意味で真の理解の難しさということも含めて)、自分とそして関わる誰かの違った見方を生むものであればそれだけでも素敵な意味を持つものだと思います。

2017年11月08日